Splatoon3を買った。

 

 

僕とスプラトゥーンとの関係性は1が発売されてからずっと続いており、1は狂ったようにやりこんだ自分としては待ちに待った新作といえる。

馬鹿でかいWiiUパッドで遊んでいたころが懐かしい。

 

今回は、一応2では全ルールX帯だった筆者がいい点と悪い点を挙げてみようかなとおもう。

 

良かった点

・新しいブキとステージ

まず、これは明確に増えて嬉しい。

ストリンガー系統は楽とが色々言われているが、初心者にしてみれば塗ってスペシャルを使用していれば使いやすいブキだし、ワイパー系も癖はあるが今後の開拓の余地が十分にありそうである。

ブキの種類がまだ出そろっていないので、メインブキが使いづらい点は否めないが、それは今後に期待している(筆者のメインブキは2だったら、ハイカスorもみじorシマネ)

ステージに関しては、ぶっちゃけて言うと新しさで言うと、うーんという感じ。

どれも似たような構造をしており、色味も全体的に茶色がかっており、変わり映えはしない。

新しいステージというだけでも、嬉しいものはあるのだが、発売して時間が経ってくると色々言いたいことはある。

 

・サーモンラン

今作、一番楽しいのがこれかもしれない。

筆者は、S+まであげたあとは基本的にサーモンランしかしてないです。

新ステージが2種類追加とされて、どちらも癖はあるが今のところいい感じではある。

アラマキ砦は扇状に広がっているステージで、わりと視点が狭めなのでやりやすい。ムニエールは構造的には、2のトキシラズいぶし工房に似ていて、タワーの処理などを迅速にしないと積むことが非常に多い。

全体的に言えるのは、難易度がバク上がりしたのが嬉しい。

2は初めてできたモードだったので、わりと危険度MAXでもクリアすることは割と簡単だったので、ガチマッチの箸休め的な位置にいたが、3ではこれがガチマッチぐらい緊張感があり、ちょうどいい。

納品数の増加と、ザコシャケの攻撃力、オオモノなど結構力を入れてきたなあという印象。

特に、ポイントが下がる点は、本当にガチマッチと同じくらい悔しくて、下がるようなことがあると結構落ち込む。

ただ、1点だけ言いたいのは、3で全体的に言えることなんだけど、ラグがひどくてイクラをゲットした時の、感覚?2で慣れていたようなゲットした感触を持っていると、違和感があって気持ち悪い。

画面と、取得した時の音のずれがあって金イクラ取ってるのに取ってないようなときとかもあったりして、そこだけ引っかかる。

だけど、今作のサーモンランは本当によくできてて、簡単にはクリアさせないぞという気概があって楽しいです。

あと、もう1つだけありました、報酬交換窓口の交換だけいちちボタン押すのは直してほしかった。2の時は最終的に報酬交換のボタンがめんどくさすぎて交換してなかったのですが、3はウロコ交換が報酬交換した後じゃないとできないので、まとめてできる機能があったらいいなぁとずっと思ってました。というより、3では実装されるものだと思ってました。

まあ、ギアごとにパワーが違うので難しいのかもしれないですけど、せめてウロコ交換は別でできるといいかもしれないですね。

 

・ロッカー

ぶっちゃけ、最初はなめてました。

えー、これ最高です。面白いです。

いや、最初は思ったんですよ、スプラはガチマッチとかサーモンランでばちこり敵をしばきにきてるので、装飾要素とかいるのかなあ?と。

2のころからギアがパワー重視で選ぶことが多かったですし、好きなギアに厳選するのとか結構大変でしたし。

ロッカーのことも最初は、まぁ好きな人がやればいいんじゃね?って思ってたのですが、みごとにはまりました。

多分、他の人のデザイン性が優れているのを見てからですかね。

ああやって一列に並んでると、自分も目立つロッカー作りたいなあってなるんですよね。

ストリート系、シック、モダン、幾何学、ギャグとか最近はバリエーションが増えてきて面白いです。(ブランド系のステッカー高すぎ!!)

 

・ネームプレート

ロッカーとも似てるんですけど、ネームプレートも結構好きです。

もともストリート系のグラフティデザインが好きだったということもあるのですが、デザインが凝ってて、楽しいですし作成している人すごいなぁって思います。

ガチャから出るいわゆるレアネームプレートがあるらしいのですが、もっぱら自分の好きなネームプレートを使ってます。

 

誰に対して書くのか

 

ブログを書いているとターゲットは誰なのだろうと?とよく考える。

 

 

一番に思うのは、小さい時の自分。

20歳ぐらいの自分を想定している、ちょうど20歳がぐらいは人生の崖底で、いろいろな問題が降りかかって、精神的に一番病んでいた。

自分ではどうしようもないことが次から次にあったので、精神的なよりどころとしてブログを書いていた。

 

そのときに一番考えていたのは、「君には自由に選択できる能力がある」ということだった。

若干、スピの自己啓発みたいに胡散臭い話になってしまうが、それまでの僕は自分の人生が親に決めらてているレールが正しいとずっと思いこんで生きていた。

時々違和感はあったが、なにも疑いなく親に敷かれたレールをずっと歩んできたのである。

 

しかし、ちょうど20歳の時にそれが破られた。

いわゆるアイデンティティクライシスに陥り、ちゃんと診断されたことはないがうつ病のような症状が毎日出ていた。

その時はブログに随分救われた、そこから得られる情報と、自分の感情の掃き出しが心の整理に役立った。

 

だから、その時の僕がいわゆる読者だ。

人生に絶望して、毎日がグレーでほのかに暗い。

生きる意味とか価値とか哲学とか人生とか、形而上の問題を一生懸命考えていた、孤独で哀れな自分こそがメッセージを届けたい相手。

ただ、君には自分の人生をちゃんと自分で選ぶ能力があるんだよと、それだけを教えることができれば僕は満足である。

君には、ちゃんと自由意志があって、選び取ることが出来る、と。その勇気を持ち合わせていることを伝えることができたら、いいなと思う

ささやかな願い

 

 

 

仕事をしばらく休職して思うのは、本当に働くことがいやだったのだなと思った。

 

 

仕事を3か月ほどしていない。

自分のやりたいこと、探しているもの、それをこの休職期間中(ニート)で探そうと思っていた。

しかし、あるのは焦燥感と不安のみ。

あやしい投資話に鵜呑みになりそうになったり、一攫千金の馬鹿話を信じそうになったりと、順調に破滅への道を進みそうで面白い。

英語学習やブログ解説もその一連の流れである、どうせ長続きしなさそうなので、気楽にやることにしている。

 

 

すこし前にFIREという言葉がはやった。

流行りに乗っかっている自分としては積み立てNISAでS&P500を2年前ほどから始めている。

コロナの暴落期に買ったということもあり、最近の株価不況があるが、いまだに損益プラスで推移していると、なにごともタイミングが重要なのだなと思う。

働いている時は毎月安定した収入が入ってくることが、精神的にもいいように思えたが、時間の切り売りをしていることとトレードオフになっていた。

しかし、全く働いていないと、それはそれで何かまずい気がしてくる。

娯楽を消費しているだけでは、満たされない何かがあるのだろう。

人生はやはり、バランスが大事である程度のストレスとプレッシャー、そしてたまに娯楽とか余暇。

そういうバランスで成り立っていくのがやっぱり一番良いのではないかと思ってくる。

 

人は、娯楽を消費するだけの集中力が続かないし、ずっとストレスにさらされ続けることも難しい。

そいういう両天秤をかけていると、ある程度緩く働きながらサイドFIREを目指していくことが僕の目標なのかなと思っている。

ファットFIREをするほどの入金力をあげる気概もなく、ある程度社会と繋がっていたいという気持ち。

人と会わないとなると、とことん合わなくなってしまう性分なので、人間関係を求められる強制力が必要なのかなと感じる。

 

頭がよくなりたいといつも思っている。

 

 

ことあるごとに、人生の節目だったりとか、何かしらのタイミングでもっと頭良かったらなあと思う。

スマートで賢く、インテリジェンスな生き方が出来ていたらもっと人生が違っていたのかなと。

僕はいわゆる、高卒で学歴は良くない。

大学自体には興味があったけど、自分のその時の興味と仮定の事情で神学は難しかった。

だけど、アラサーまで生きていいると、あの時やっぱり大学に行っておけば良かったなと思うし、いまでもできるなら行きたいと思っている。

 

 

社会人になってから大学にいく意味はあまりないよ、とよく言われる。

確かに社会に出ていると、仕事というのは学歴だけじゃ決まらないことが多々あるし、日々の仕事は勉強の毎日で何とかやっていくものだとは思う。

しかし、一般教養的な意味でのなにかが欠落しているんじゃないかという思いがいつもある。

世界の成り立ちであtったり、歴史、経済、社会、科学。

そいういう大学で教えてもらえる一般教養という意味で僕は、なにかが足りていないんじゃないかと思うのだ。

これからの人生を生き知恵くうえで、そういう知識はとても大事だと思うし知りたい。

 

 

どうしてゲイは下ネタをすぐにつぶやくのか

 

 

えー、こんばんは。

最近Twitterを観測していると、あまりにもゲイの方たちの下ネタの多いつぶやきに辟易して、気持ち悪くなりました。

自分がフォローしている方にそういう人が多くなってしまうのか、それともゲイという属性上そういう傾向が強いのか、少し気になったのでブログで書いてみようと思います。

 

まず、単純に思うのは、やっぱりゲイの人って下ネタ多すぎじゃね?っていう話です。

自分はゲイの人と繋がるアカウントは別垢でつながっているのですが、普段使っているアカウントとの違いにびっくりすることが多々あります。

少しスクロールするだけでも、セックスしたい、掘られたい、浮気話のオンパレード。

閉鎖的なコミュニティだからと言って、何を言ってもいいのかなとちょっと疑問に思いました。

 

ゲイは男同士という特性上、自分の生理的な願望が分かりやすいので、必然的に下ネタを言いやすいっていうのは理解できます。

男同士なら下ネタを言い合っても別に問題はないという風潮はありますし、別に身内だけでひっそりとやるなら全然問題ないと思うのです。

自分もそういう下世話な話は普通に好きですし、理解できるところもあります。

しかし、Twitterとかで平然とつぶやいている人を見ていると、マジかって思います。

そんな簡単にツイートして大丈夫?みたいな文章も多く、それにたくさんのいいねがついていたりすると、若干引いてしまいます。

 

これTwitterだけじゃなくて、ゲイの方が運営されているYouTUBEとかでも同じ話なのですが、なににつけても下ネタとからエロネタばっかりで、まじで気色悪いです。

ゲイというと属性がそいういうイメージをすぐ連想させるような作り方になっていて、

見る気が失せます。

 

 

 

自分がいわゆるキレイ売りしてるとかは全く思わないです。

自分もいわゆるプライベートで、そういう下ネタとかエロ話は大好きです。

ですが、TwitterYouTUBEというネットの公共性が高いところで、そういうコンテンツを見ると、こういう風潮はなくなって欲しいなあと思います。

ゲイという属性が色情魔のように見られそうで、ほんとうに嫌になります。

君たちはどう生きるのか

 

「君たちはどう生きるのか?」を読んだ。

勝ってから一回読んだ記憶あったので、久しぶりの再会だった。

はっきり言ってしまうと、最初に読んだ時の印象はほぼない。

よくある自己啓発、哲学系の一種の本だなという印象しかなかった。文中のなかには、そこかしこに「~~しないといけない」という叔父さんの言葉があり、それがとても息苦しいなと感じていた。

 

基本的にこういう本で出てくる、べき論は信用していない。

過去の哲学というのもあるが、その偉そうな態度にひねくれものの僕は反発したくなるのだ。どこの目線から、「~~しなければならない」といえるのか。

その上から目線のような言葉が出てくるだけで、僕はその本は読む気が失せる。

 

おそらく最初に読んだ時は、そんな印象を持っていたように、読みながら思い出してきた。

同じようなところでそういう反発を繰り返していたので、僕もまだまだこういう文章を受け入れる余裕がないのだなと感じた。

 

「君たちをどう生きるのか?」を読み終わった時の思ったのは、この作者は性善説を信じているのかもしれないと思った。

人間には誰にしも、理想とするというか正義の理想像があり、それを持っていることが前提に話を進められているような気もした。

コペル君が、水谷君たちと約束を破ったときに後悔の念で寝込んでしまうシーンなんかは、コペル君がそういう感情や思考を持てる人間なんだと思わせる。コペル君のお母さん然り。

しかし、世の中にはたとえ約束を破ろうとも、老人に気をかけようと微塵も思わない人間があり、そう人はもともともうどうしようもないのだろうかと少し思った。

彼らなりの論理的な思考で生きているはずだが、もしそういう感情を持っていない人間に対しては叔父さんはなんていうのだろうか?

 

 

久しぶりに読み終わった感想としては。

つまりは、「君たちはどう生きるのか?」

それに尽きるお話である。

これはフランクルの思想とも似ている。

人生に価値があるのではなく、人生から君たちが問われている存在なのだ。と、フランクルは書いている。

僕たちは常に問われている存在であり、それに答えていくことが人生をより意味があるものにしていくのだろう。

しかし、こんな感傷的な感想を持つのはまだもう少し若い時だけで、いまさらこういう文章を読むと、理解は出来そうだがどこか納得いかないものである。

人生から問われ続けてたとしても、僕はそんな人の本質的なところは変わらないと思っている。

僕は、このままの僕で生きていくだけだし、ただ思考の見方が少し変わっていくだけなのだろう。

 

日本終わってる

 

日本終わってる。

 

最近、インターネット上でそんな言葉をふと目にしました。

円安、コロナ対策、統一教会少子高齢化、物価高騰。

色々な問題に対して、日本政府の対応があまりにも期待できるものではなくなってしまったのか、日本に対して諦観を持つ人が増えているようです。

 

日本の片隅に住むしがないアラサーゲイとして思うのは

 

「日本ってそもそも始まってたの?」

 

「始まってたとしてどこから?」

 

と思うのです。

なんとなく終わってるという言葉の意味は分かります。終焉とか、栄枯盛衰とか、落ち目とか。

多分そういう感じの言葉で言い表せるのでしょう。

また、始まってると思ってる人は、高度経済成長期からなのか、明治維新からなのか、江戸幕府誕生からなのか、はたまた天皇誕生からなのか。

どこから始まりだしたのか教えて欲しいです。

 

そもそも生まれたころから不況だなんだのと騒がれてきたアラサーゲイとしては、そもそも日本ってそんな大した国だっけ?という印象です。

一時はGDPが2位になったりだとか、工業生産品が世界を席巻していたりだとかは、過去の歴史として知っていますが、自分が生きている人生の中で日本が輝かしい出来事で世界を圧倒させていた時期なんて知りません。

何かしらの問題がいつも起きていて、それでもなんとか毎日を生きていて、世界の未来が必ず良くなるなんて夢にも思った事ありません。

 

 

もちろん、本当に終焉という意味での事実として少子化というのは存在してはいます。

しかし、終わりというのはいささか言葉が強すぎるように思えます。

またそういった問題があるとしても、それを解決する。考える。対策を練る。

そういった一歩先の事を考えていく必要があるのではないかと思います。

自分の考えや意見をSNSで披露するのは全く悪いことではありません。

しかし、ただそれを叫ぶだけ叫んで、なにも考えないというのは現代に生きる人間として、少し乱暴すぎるのではないかと思われます。

もちろん、考えている人はたくさんいらっしゃるのでしょうが。

 

 

まぁ、偉そうなことは自分には言えませんが、ただ「日本終わってる」という言葉を聞くと、そもそも始まってたの?と疑問に思った一人の人間でした。

終わりそうなら、なにか対策すればいいのでは?と単純に思うのですが、ただ現状を叫んでいるだけで物事が解決するとでも思ってるのでしょうか?