それでも人生にイエスという
「それでも人生にイエスという」という本を久しぶりに読んだ。
最初に読んだ時は、6年ぐらい前だろうか。それこそ自分のアイデンティティが喪失していた時に、救われたくて読んだ。
その時の読んだ感想は、それこそ僕はちゃんと救われていた。
フランクルが体験したアウシュビッツ収容所から語られる経験と知見は、その時の僕に生きる勇気を与えてくれた。
「人生に意味があるのではなく、君が人生から問われている」
その言葉に僕はずっと質問を間違え続けていたのだと気づいたのだ。
この瞬間、現在について我々人間は問われ続けている存在なのだ、と。
つまりこの有限の人生において、一瞬一瞬がかけがえないものだと、と。
そんな感想を持ったような記憶がある。
6年前の僕はそれなりにピュアだったんだなと思う。そういう言葉で救われた気になって、自己啓発されたのだ。
しかし、こうやって人生を重ねていくと、ひねくれてしまうもので同じ言葉を頭の中にいれたところで同じ感想とはならない。
これを成長と呼ぶのか、ただひねくれただけなのかは僕にはわからない。
この本の中で、人生をチェスと同じように例える箇所がある。
「あるチェスの選手が、チェスの問題に直面して、回答がわからず、盤の石をひっくり返すとします。なんということをするのでしょうか。そんなことをして、チェスの問題の解決になるのでしょうか。もちろんそんなことはありません。けれども、自殺する人はまさにそのとおりの行動をしているので。自分の人生をほうりだしておいて、解けないように思われた人生の問題をそれで解決したとおもっているのです。自殺することで人生のルールに違反しているとはおもわないのです。」
「人生のルールは私たちに勝つということを求めていませんが、けっして戦いに放棄しないことを求めているはずです」
ここで本書のなかでも特に大事な部分である。
私たちは自殺という手段で、人生を終わらせることは人生のルール違反だという。
そして人生のルールは私たちに戦いを放棄しないことを求めている はず だ。
はたしてそうなのだろうか?
その人生のルールは誰が決めたのだろうか?
どうして放棄することがルール違反となるのだろうか?
僕が最悪の選択肢を選びたいから、ひねくれた考え方をしているのだろうか?
それでも、思うのである。
人生は本当に戦いを放棄しないように望んでいるのだろうか?
ここでいう人生とは、まさしく形而上の問題すぎる。僕にはこの定義が意味するところをよく分からないのである。
もしかしたら、ここでいう人生とは「細胞」とか「無意識」とか「本能」といわれるものなのかもしれない。フランクルはここで直観で伝わるはずだろうと思っている気がするのである。
もしかしたら、人生を放棄することをルール違反だと思わないという人がいるだろう。
もちろん、それが良い選択肢だとは僕は思わないし、すすんで選ぶものではないことも分かっている。
しかし、ルール違反といわれると、そうだろうか?と考える。
そのルールは誰にしでも、直観的に理解できるような、ルールとなっているのだろうか?