君たちはどう生きるのか

 

「君たちはどう生きるのか?」を読んだ。

勝ってから一回読んだ記憶あったので、久しぶりの再会だった。

はっきり言ってしまうと、最初に読んだ時の印象はほぼない。

よくある自己啓発、哲学系の一種の本だなという印象しかなかった。文中のなかには、そこかしこに「~~しないといけない」という叔父さんの言葉があり、それがとても息苦しいなと感じていた。

 

基本的にこういう本で出てくる、べき論は信用していない。

過去の哲学というのもあるが、その偉そうな態度にひねくれものの僕は反発したくなるのだ。どこの目線から、「~~しなければならない」といえるのか。

その上から目線のような言葉が出てくるだけで、僕はその本は読む気が失せる。

 

おそらく最初に読んだ時は、そんな印象を持っていたように、読みながら思い出してきた。

同じようなところでそういう反発を繰り返していたので、僕もまだまだこういう文章を受け入れる余裕がないのだなと感じた。

 

「君たちをどう生きるのか?」を読み終わった時の思ったのは、この作者は性善説を信じているのかもしれないと思った。

人間には誰にしも、理想とするというか正義の理想像があり、それを持っていることが前提に話を進められているような気もした。

コペル君が、水谷君たちと約束を破ったときに後悔の念で寝込んでしまうシーンなんかは、コペル君がそういう感情や思考を持てる人間なんだと思わせる。コペル君のお母さん然り。

しかし、世の中にはたとえ約束を破ろうとも、老人に気をかけようと微塵も思わない人間があり、そう人はもともともうどうしようもないのだろうかと少し思った。

彼らなりの論理的な思考で生きているはずだが、もしそういう感情を持っていない人間に対しては叔父さんはなんていうのだろうか?

 

 

久しぶりに読み終わった感想としては。

つまりは、「君たちはどう生きるのか?」

それに尽きるお話である。

これはフランクルの思想とも似ている。

人生に価値があるのではなく、人生から君たちが問われている存在なのだ。と、フランクルは書いている。

僕たちは常に問われている存在であり、それに答えていくことが人生をより意味があるものにしていくのだろう。

しかし、こんな感傷的な感想を持つのはまだもう少し若い時だけで、いまさらこういう文章を読むと、理解は出来そうだがどこか納得いかないものである。

人生から問われ続けてたとしても、僕はそんな人の本質的なところは変わらないと思っている。

僕は、このままの僕で生きていくだけだし、ただ思考の見方が少し変わっていくだけなのだろう。