フランクルについて
YouTUBEで宇多田ヒカルさんがフランクルに言及している動画を見た。
まさか宇多田ヒカルからフランクルの名前が出てくるとは意外だった。どうやらInstaライブの切り抜きで、質問者から仕事と人生の悩みについて相談されている時にこたえていた。
ここ数日前にフランクルの「それでも人生にイエスという」について書いたばかりだが、自分の中で意外な発見があったので、それでも書こうと思う。
端的に言ってしまうと、僕は数日前の記事を書いた時はちゃんとフランクルの思想を理解していなかったのかもしれない。
ひねくれた批評家気分になったつもりで、彼の思想について難癖をつけていた。
しかし、宇多田ヒカルさんの動画を見てから、僕はなんだか思い違いをしていたように感じた。
「生きることは責任である」
なぜかこの言葉が僕の中で響いていた。なぜだかよく分からないが、よく分からないのである。
僕はいままで、人生とはどこかで誰かからもらったものだと自分事として生きてこなかったのかもしれない。親からの製造品であり、何かしらの指針もどこかから譲り受けたものを単純に模倣しているだけなのかもしれない。
しかし、「生きることは責任である」と聞いた時に、そっかーと思った。
今まで、生きる意味とか、価値とか、人生とか。
そういうぼんやりした悩みをずっと持って、生きづらさを抱えてきたけど、生きることそれ自体が、前提として責任であると言われたら、そこにはもう悩みがないような気がした。
単純に、まず生きていかないといけない。
そういう前提がある。そこから出てくる意味だとか、価値だとかは、僕が生きるて行くうえで探し出していかないといけない。生きることは義務でも、自由でもない。ただ責任がある。
そうなると僕は、自分の人生に対して何かしらの役割を、仕事を、意味を自分で探しだしていかないといけない。
こんなっポジティブな考え方ができるのは、運動を久しぶりにしたからなのか、秋の陽気さにやらrているからなのかは分からない。
しかし、生きていく。
それが大本として、土台としてあること。それが大事なのだと思った。そこが揺らいでいては、なにも始まらないと思ったのだ。