働きたくないとは?
仕事を辞めてから3か月が経った。
3か月経過して思うのは、働きたくないという強烈な感情だけである。人と会う生活をしていないせいなのか、ネガティブな思考をグルグルすることもあれば、ポジティブな日もあったりと情緒不安定で面白い。
この強烈な非労働感情はなんなのだろうか?とここ数日良く考える。
まず第1に思うのは、何かを強制させられるという事。
仕事とは、まさしくそういうものなのだ。と言ってしまえばそれまでである。誰かの役に立ったり、喜びを与えたり、そういうことをすることで対価が発生する。
そこにはもちろん、自分のやりたくない作業や労働がある。お金を得るためならということで、強制的な労働がはじまるわけである。自分の好きなことで生きていくにしろ、そこには何かしらの強制力がある労働が発生するものである。
どうして、ここまで強制させられることに嫌気がさすのだろうか?
自分を分析するに、僕はそこまで定型的な作業は嫌いではない。前のSE職についていた時も、出来上がった設計書からコードを書いたりすることは好きだった。テスト工程は大っ嫌いだったが。
思えば、自分の出自に関係しているように思われる。
僕は生まれが、もともと厳格な新興宗教のもとで、育てられた。いまでこそ、団体から抜けているが、そこでの戒律やルール全般に対して嫌気がさしているのだろう。
自分が望んでいることならいいが、今の僕には賃金を得てまで、強制させられる何かに耐えられるものではないと考えている。
第2は、自分の仕事に対する姿勢だと、考えられる。
元来、負けず嫌いで競争心が激しい自分は、仕事をしていた時は如何に仕事をできるようになるかをよく考えていた。ビジネス本や、YouTUBEでの動画を見漁っていた時期もあるし、多分に漏れず英語習得を目指していた。
しかし、そういう考え方に嫌気がさしたのだ。他人の成功体験や、経験を読んでいるとどんどん嫉妬している自分がいた。
どうして、彼はそこまで成功できたのだろうか?
ここまで努力をして、成功したところで自分はその賃金に見合った幸せを手に入れられうのだろうか?
そういう、途方もないように思える競争心と、際限のない欲望にのまれそうになったのだと思う。
はっきり言ってしまうと、今の自分の精神状態を考えるに労働は必須なものだと思われる。
安定したお金が発生することはメンタル的にとても安定するし、自分の事を考えない時間が毎日発生することは、余計なことを考えずに済む。自分の時間がなくなるデメリットも発生するが、自分のことに囚われすぎて自滅するよりマシではないだろうか?
仲良くなると離れたくなる症候群
自分の事を陰キャ体質だと思っているのですが、それなりに人恋しさみたいな感情を持つことがあります。
割とSNSとかで他人のつぶやきを拝見していると、今の人で仲良くなると離れたくなるという人は多いように思います。
ある程度、仕事でもプライベートでも、そうなのですがふとした瞬間に「あぁ、仲良くなりすぎたなあ」という感情が芽生える時があるのです。
もし一般感覚を持つ方でしたら、そこで関係性を断絶しようとか、フェードアウトしようかなという思考はあるかもしれませんが、理性で抑えていることでしょうか。
しかし、自分の場合は、その理性がうまく働かないのです。
心理学的に正しいのかは定かではありませんが、こういう人を「回避依存」というようです。
僕は、こういう心理カウンセラーは基本的に信用していないのですが、こういう傾向について名前があるというkとおは、一般的にも珍しくない傾向だと推察できます。
軽くネットで調べた程度では、以下の特徴があるようです。
・初対面や関係が浅いうちは、印象を良くする
・自分と相手の境界が薄い
・急によそよそしくなったりする
・相手から距離を詰められると避ける
分かり身が深いですね。
原因はいろいろとあるようですが、自分としては原因探したところで大抵意味がないことが多いので、こういう傾向が自分いあるということを認知するだけで、わりと緩和されると思っています。
多分、こういう方はLINEとかのメッセージがわりと苦手かなと推察されます。
相手に自分の時間を取られることを極度に嫌っていたり、自分のテリトリーを冒されたように感じてしまうのかもしれません。
他人が嫌い、というわけではありません。
仲良くなりたいと思うし、親密な関係をそれこそ持ちたいと思う時はありますが、いかんせんこういう傾向が出てきた場合に、自分ではどうしようもできない時があります。
フランクルについて
YouTUBEで宇多田ヒカルさんがフランクルに言及している動画を見た。
まさか宇多田ヒカルからフランクルの名前が出てくるとは意外だった。どうやらInstaライブの切り抜きで、質問者から仕事と人生の悩みについて相談されている時にこたえていた。
ここ数日前にフランクルの「それでも人生にイエスという」について書いたばかりだが、自分の中で意外な発見があったので、それでも書こうと思う。
端的に言ってしまうと、僕は数日前の記事を書いた時はちゃんとフランクルの思想を理解していなかったのかもしれない。
ひねくれた批評家気分になったつもりで、彼の思想について難癖をつけていた。
しかし、宇多田ヒカルさんの動画を見てから、僕はなんだか思い違いをしていたように感じた。
「生きることは責任である」
なぜかこの言葉が僕の中で響いていた。なぜだかよく分からないが、よく分からないのである。
僕はいままで、人生とはどこかで誰かからもらったものだと自分事として生きてこなかったのかもしれない。親からの製造品であり、何かしらの指針もどこかから譲り受けたものを単純に模倣しているだけなのかもしれない。
しかし、「生きることは責任である」と聞いた時に、そっかーと思った。
今まで、生きる意味とか、価値とか、人生とか。
そういうぼんやりした悩みをずっと持って、生きづらさを抱えてきたけど、生きることそれ自体が、前提として責任であると言われたら、そこにはもう悩みがないような気がした。
単純に、まず生きていかないといけない。
そういう前提がある。そこから出てくる意味だとか、価値だとかは、僕が生きるて行くうえで探し出していかないといけない。生きることは義務でも、自由でもない。ただ責任がある。
そうなると僕は、自分の人生に対して何かしらの役割を、仕事を、意味を自分で探しだしていかないといけない。
こんなっポジティブな考え方ができるのは、運動を久しぶりにしたからなのか、秋の陽気さにやらrているからなのかは分からない。
しかし、生きていく。
それが大本として、土台としてあること。それが大事なのだと思った。そこが揺らいでいては、なにも始まらないと思ったのだ。
ゲイマッサージについて
ゲイマッサージというサービスがある。
端的に言ってしまうと、ゲイ向けの風俗だ。
他にもゲイ向けの風俗で言うと売り専という言葉もあるが、これはどちらかというと性的サービスはそこまではない。お店によって違うだろうが、本番行為などは基本的にないものだと思っている。
2年前ぐらいから、僕はゲイマッサージを半月に1回ぐらいで買っている。
買う前は僕も色々悩んでいた。それこそちんけなプライドがあったから、風俗を買うなんてアプリとかで出会えないゲイがやるものだと思っていたし、そこまでエロに対してがっつくのも引いていた。
わざわざお金を払ってませサービスを受けようという思考回路がその時は理解できていなかった。
しかし、アラサーにもなってきて色々アプリで出会うことが面倒になってくる。
いちいちやり取りして、スケジュールを都合して、初対面なら会話とかも頑張って。
そういうことが面倒になった。
若いうちは、それこそエロのパワーで猛進できたのだが、いかんせん最近はそれだけではなかなか人と会うところまで行きつかない。単純にモテなくなったというのもあるかもしれないが。
そんな時にゲイマッサージと出会った。
最初は多分Twitterかなんかで知ったのだと思う。
予約できますとか、きわどい写真が上がっていたりだとかで、どんなもんなのかなと不思議だった。
初めて買って、ひととおりサービスを受けた後に思った。
「自分に合ってる」
単純にそう思った。お金が発生する代償としての行為、時間制約、余計な会話、タイプじゃない場合のキャンセル。
全てが自分とマッチしていると思った。
誰かの肌に触れたいと思っているけど、煩わしいコミュニケーションとかいらない。
人と接っする時間は2時間ぐらいで十分。
もろもろの理由が自分と求めていたものと同じだった。
マッサージをしてくれた人に話を聞くと、今僕みたいな青年は増えているらしく、よくいるという。
それはそうだろう。アプリで頻繁にリアルする人なんて、それこそ生粋の陽キャにしかできない。
元来陰キャ体質は、メッセージすら大変なのにリアルするなんて、その時の気分が乗ってないとよほどじゃないが難しい。
そういう人はマッサージをおすすめしたい。サービスも過激なものは売りとは違ってないし、お手軽に欲望を満たすだけなら簡単だ。
それでも人生にイエスという
「それでも人生にイエスという」という本を久しぶりに読んだ。
最初に読んだ時は、6年ぐらい前だろうか。それこそ自分のアイデンティティが喪失していた時に、救われたくて読んだ。
その時の読んだ感想は、それこそ僕はちゃんと救われていた。
フランクルが体験したアウシュビッツ収容所から語られる経験と知見は、その時の僕に生きる勇気を与えてくれた。
「人生に意味があるのではなく、君が人生から問われている」
その言葉に僕はずっと質問を間違え続けていたのだと気づいたのだ。
この瞬間、現在について我々人間は問われ続けている存在なのだ、と。
つまりこの有限の人生において、一瞬一瞬がかけがえないものだと、と。
そんな感想を持ったような記憶がある。
6年前の僕はそれなりにピュアだったんだなと思う。そういう言葉で救われた気になって、自己啓発されたのだ。
しかし、こうやって人生を重ねていくと、ひねくれてしまうもので同じ言葉を頭の中にいれたところで同じ感想とはならない。
これを成長と呼ぶのか、ただひねくれただけなのかは僕にはわからない。
この本の中で、人生をチェスと同じように例える箇所がある。
「あるチェスの選手が、チェスの問題に直面して、回答がわからず、盤の石をひっくり返すとします。なんということをするのでしょうか。そんなことをして、チェスの問題の解決になるのでしょうか。もちろんそんなことはありません。けれども、自殺する人はまさにそのとおりの行動をしているので。自分の人生をほうりだしておいて、解けないように思われた人生の問題をそれで解決したとおもっているのです。自殺することで人生のルールに違反しているとはおもわないのです。」
「人生のルールは私たちに勝つということを求めていませんが、けっして戦いに放棄しないことを求めているはずです」
ここで本書のなかでも特に大事な部分である。
私たちは自殺という手段で、人生を終わらせることは人生のルール違反だという。
そして人生のルールは私たちに戦いを放棄しないことを求めている はず だ。
はたしてそうなのだろうか?
その人生のルールは誰が決めたのだろうか?
どうして放棄することがルール違反となるのだろうか?
僕が最悪の選択肢を選びたいから、ひねくれた考え方をしているのだろうか?
それでも、思うのである。
人生は本当に戦いを放棄しないように望んでいるのだろうか?
ここでいう人生とは、まさしく形而上の問題すぎる。僕にはこの定義が意味するところをよく分からないのである。
もしかしたら、ここでいう人生とは「細胞」とか「無意識」とか「本能」といわれるものなのかもしれない。フランクルはここで直観で伝わるはずだろうと思っている気がするのである。
もしかしたら、人生を放棄することをルール違反だと思わないという人がいるだろう。
もちろん、それが良い選択肢だとは僕は思わないし、すすんで選ぶものではないことも分かっている。
しかし、ルール違反といわれると、そうだろうか?と考える。
そのルールは誰にしでも、直観的に理解できるような、ルールとなっているのだろうか?
ニートは才能
ニートは才能です。
働いている時に好きなゲーム実況者さんが配信者とニートは才能がないと無理、と言ってました。
その意味としては、将来に対して不安があってもそれを続けられることが出来る、その感情が才能なんだと。
この言葉に対して、最近かなり共感するようになってきました。
一応働かなくても暮らせるだけの貯金はあと1年ぐらいはあるのですが、如何せん将来にたいして不安がよぎります。
最初のころはスプラトゥーンも発売したてだったこともあり、ゲームをしていれば時間が過ぎるのは早かったのですが、それにも飽きてくると、がぜん焦りが起こってきます。
このまま働かなくてもいいのか?
自分は社会不適合者なんじゃないか?
ちゃんと次の会社でも働けるのか?
自分にあった仕事とは?
とまあ、よく自分の事を考えすぎるのが鬱の始まりだと言われますが、暇な人間というのはこの行動が顕著で、暇な時間ができると無駄な事ばっかり考えてしまいます。
それに加えて、最近の気温低下も相まってかネガティブな思考が止まりません。
ぶっちゃけこのブログもメンタルサポート的な意味合いが多分に含まれていまして、考えていることを吐き出しておいて、頭のなかを整理するために使っています。
おそらくプロニートと呼ばれる方々はこの焦燥感や焦り、不安を乗り越えて生きていける方なんだろうと推察します。
こうして考えてみると、生きていくことはどんな人生を歩もうとも、悩みの種は尽きないものなんだんと思います。
隣の芝は青く見えるじゃありませんが、人はそうやって不安な気持ちを持つことで進化してきた生物ですので、ネガティブな感情を持つことは悪いものじゃありませんが、なんとかならんかなと思います。
対処法としては、一番に考えられるのは、
「自分の事を考えすぎない」
仕事しろよ、というお話ですが、僕もその通りだと思います。
人のためになるようなこととか、そういうものでもいいでしょう。
しかし、仕事をするにしても前のように働いていく事はどうしてもできません。
なので、もう少々お暇を続けていきたいなと思っています。
チェンソーマン面白いと改めて思う話
みなさん、チェンソーマンは見てますか?
アニメが始まりNetFlixで見られるようになりまして、絶賛大ハマりしています。
自分の推しはマキマさんです。
これだけ流行っているので、いまさら解説することも特にはないと思うのですが、個人的にはまるまでに変遷があったので、そのことをつらつらと書いてい見たいと思います。
最初は微妙じゃね?と思ってた
チェンソーマンを漫画で最初に読んだ時は、たぶん2年前?とかそれぐらいだったのですが、その時は全然はまりませんでした。
主人公のデンジの心情とかパワーちゃんの虚言癖とかが、受け付けなくてうーんみたいな。
能力者バトルにしては、個々人の能力もそこまで魅力的じゃないし、世の中的に流行ってるけど自分とは合わないなあという印象でした。
そもそも、なんでチェンソーなんだろう?とかジャンプにしてはグロすぎなのでは?とか否定的な意見を上げようと思えば、結構出てきたと思います。
アキ君じゃないが、主人公にどうも感情移入できねえなあ。
ルックバックでしる藤本先生のすごさ
それで、チェンソーマン自体は全然見なくなったのですが、ある時にTwitterで藤本タツキ先生が「ルックバック」という読み切り作品を書かれていることを知りました。
たしかジャンプ+で無料で読めるとかだったので、まあ無料ならということで読んだのですが、これにやられてしまいました。
かなり食らいました。
えー、まじかーという感じです。
すごかったです。
何回も読めば読むほど面白いというか。
一回だけじゃ分からない感覚でした。
一旦、全部読み終わったとに、前半部分を読むと、本当に涙が出そうになりました。
Twitterでも、読んだ人から続々とすごいという感想が上がっており、自分も久々にすごいものを読んだ気持ちでした。
そのあとに続いた、表現の規制問題もわりと感慨深く色々な記事を読みましたが、最初は規制なんて反対だ!と思っていたのですが、そのあとは規制した判断に割と納得しました。
あの時の修正前作品を読めたことは、個人的にはかなり運が良かった体験をしたと思います。
この時から、藤本タツキ先生はすごい方なのだなと思い始めました。
しかし、作品が面白いというだけで、「チェンソーマン」は1回あきらめていることから、ほかの作品をちゃんと読んでみようとはなりませんでした。
アニメ化
そして、最近になって、チェンソーマンのアニメが始まりました。
製作はMAPPAという会社で、なんと毎回エンディング曲が違うという、かなりの贅沢な仕上がりに、作画もかなり凝っていて、かなり楽しめました。
ここから、自分の中でチェンソーマンに対する熱量が変わってきました。
かの「鬼滅の刃」でもそうなのですが、アニメから原作へという流れは、最近だとかなりある話なのではないかと思っています。
もちろん、昔からアニメから原作を読むという流れはあったと思うのですが、作画にこだわったアニメをみたい視聴者が、ここまで素晴らしいアニメということは原作も素晴らしいものに違いないと思うのです。
はっきりいってしまうと、鬼滅の刃に関してはアニメ→漫画となった時に、この原作からあのアニメーションを作れるのかと驚きました。
もちろん、漫画の良さはそのストーリーであるとだんだん確信していきましたが、漫画を初めて読んだ時は、若干そこまで売れる話なのか?と疑問に思ったことを覚えています。
つまりは、これと似たようなことがチェンソーマンでも起こりました。
アニメの作画素晴らしく、ここまでお金を入れる原作はどんなものだろうと興味が沸き起こったのです。
そして、電子版を全巻購入して、読み始めたところ、びっくりです。
最初に1、2巻読んだ時とは全然違う印象でした。すいません。
藤本先生が映画が好きだとおっしゃられていますが、まさしくその通りです。
これは映画の間やこま割なんだなと感じました。
独特のアングルや表現方法はまさしく、奇才といえるのでしょう。
こうして見事にチェンソーマンにはまってしまった一人の男が誕生しました。