地の果てへの旅を読んで

 

 

語りえぬものはについては、われわれは沈黙すべきであるのではなく

語りえぬものについては、想像力を働かせるべきだ

 

 

ある方のブログにおすすめの本として、「地の果てへの旅-What We Cannnot Know マーカス・デュ・ソートイ」が紹介されていた。

著者は数学を専門とされている方で、オクスフォード大学のシモニーという役職についている。

シモニーとは、一般に科学教養を啓蒙することを目的としており、前任者はかの有名なリチャード・ドーキンスであった。

本の内容としては、2018年出版ではあるが、現在の科学が知りえぬことについて、それまでの経緯、著者の数学的アプローチに対する考察など、難しい専門用語が出てくることもあるが、中学理科の教養があれば十分に理解できる内容となっている。

また、著者の各専門分野の有識者にインタビューする際の真摯で誠実な姿勢に共感するるのである。

 

大学進学をしなかった、自分としては高校卒業してから世界について何か知らないのではないかという不安がいつもつきまとっていた。

現在の科学の最先端では何が行われているのか、何が知りえないのか、科学と宗教の対立はどうなったのか、いままで科学はどうやって積みあがってきたのか。

高校レベルの知識では、漠然と教科書の内容を記憶していただけで、いかに科学の手法がここまで世界に浸透するようになったのかが、自分の中で腑に落ちていなかった。

あの時に、ちゃんと大学にいっていれば、そんな後悔がずっとあった。

もちろん、あの時の思考の選択は当時の自分の限界でもあったし、外的な要因も多分に影響していたため、不可抗力として受け止めていた。

だが、やはり何かが足りない。

世界についての知識が不足している、そういう感情はずっと残っていた。

 

そして、先日、この本に出会ったのだった。

衝撃だった。私が知りたかったことがすべて書かれていた。

教養の足りない自分にも分かりやすく、カオス理論、量子力学、時間と空間、意識の問題。

それらが、ちゃんと理解したわけではないが、現代科学の問題について概略を把握することができたのだった。

そして、不可知に対する態度とどう向き合うのかについて、考えさせられた。

 

私は、昔に不可知論と出会ったとき、敗北主義に偏ってしまった。

人がすべてを知りえぬことについて、また真実を知るということができないことについて、そこからさらに1歩先に行ける勇気がなかったのである。

その時の、世界は真実が存在していて、それを自分は知ることができると信じていた。

だから、ヒトは必ずしも真実を知りえぬと言われたとき、厳密にはそういう考え方もあると読んだ時、いわゆる消極的不可知論におちいってしまったのである。

つまりは、知りえぬのなら誰かに任せればいい、放置しておく。そういう態度である。

自分は、怖かったのである。そこから先を知ろうとしても、限界があることや歴史の批判に耐えらえることができるのか、何かできることがあるのか?

そういった事を考えるリソースが当時の自分にはなかったし、勇気もなかった。

 

しかし、この本を読んだ時に、著者は不可知論としての向き合い方として自説を教えてくれた。

無神論者としての立場をとっている著者は、不可知と対面した時、そこに隙間の神を埋めるのではなく、想像力を働かせろ言う。

科学とは、いつでも時代に受け入れられてきたわけではなく、当時は受け入れられなかったモデルから今でも進歩してきた。

つまり、今の不可知に対して、逃げる、放置する、あきらめるというのは敗北主義なのである。

もちろん、神を信仰することや、不可知を許容することが全くの負けではない。

そうして、折り合いをつけていくことで人生を豊かに生きることができるのは自明である。

 

だが、自分の身に置き換えたときに私は、知りたいと思ったのである。

いや、何かを見つける努力は今でもできるのだと、勇気づけられたのである。

だから、私は何が分からないのか知るために、大学に行くことを検討しているのだった。