コリラックマの画像をみて色々と考えてしまったので

なにか書きたいと思った

f:id:kanmi310:20210425220004j:plain

 

 

もともと自分の欲求に対して無頓着なところがあると認識している。

自分を少しないがしろにしているといっていいかもしれない。

それは単純に自分の肌を刃物で傷つけたりするということではない。

考え方の問題というのでしょうか。

例えば、なんだかもやもやしている日があったとします。

もやもやじゃなくても、なんだか疲れてたりする日。

そういう日っていうのは、基本的に自分の気分があがらないもので

無理に何かしようとしたり、頑張らないとできないことは控えたほうがいいものである。

しかし、そこでなにかやろうとする傾向がある、というものだ。

もちろん、それは努力という意味では素晴らしいことであるし

なにかを毎日継続させている点からすると、ほめるべきことである。

だが、それが自分の限界を超えようとしているならどうだろうか?

なんだか今日は休みたい気分なのに、頑張ってしまう。

なんのために?

それは分からないけど、そういう心理的傾向があるということを自負している。

 

そんな気分でコリラックマの画像を見ていた時に

なんだかはっとさせられてしまったのである。

毎日やりたいことは変わるのだから。。

何かをはじめたらそれを続けなきゃという思いが強い時がある。

せっかく始めたのに、途中でやめてしまうなんてもったいないじゃないかとか。

継続していればいいことがあるよとか。

もちろん、それはとても本質を得ている。

続けるということはなにがしかの努力をしないとできないことである。

 

しかし、そんなに何かをすべきなんていうことがあるだろうか?

昨日の自分と今日の自分がやりたいことが変わっていて何が悪いのだろうか?

いつまでも同じ自分など存在できるのだろうか?

そんなことは無理だろう。。

 

たとえ、今日嫌なことがあっても明日には好きになれるかもしれない。

今日の自分と明日の自分が全然違う心理状況であっても大丈夫だと思える。

そういう気持ちで生きていけたら、とても気楽なのになと考えた。

 

 

人は文章を書かずにはいられない、と時々思うのである。

 

良く考慮された文章というのは、読んでいて気持ちが良くなる。

明瞭な結論、簡潔な文章、詳細な記述。

テンポの良さが文章を読んでいて、どんどん気持ちよくさせる。

時には、冗長ともいえるような文章もある。

そこまで回りくどい言い方をしなくても、と。

もちろん、余計なセンテンスを盛り込んでいるなと、読み始めたときは感じる。

だけど、読み進めていくうちにそれも必要なことだと気づくのである。

 

人は毎日、毎時間、だれしもなにがしかの思考を持っている。

それは、素晴らしい考えかもしれないし、とてもくだらないものかもしれない。

時には、残酷さや鋭さすら混じっているかもしれない。

読むと刃物のように鋭利に人の心を傷つけるかもしれない。

だけど、確かに思考の上澄みというのは存在している。

それを救い上げて、ドキュメントとして起こすことは、とても大事なことだと思うのである。

 

個人の考えなんてだれが読みたがるんだと、考える人もいるだろう。

もちろん、その考えは否定しない。

意見というのはその論理性より、だれが主張したかのほうが大きな影響を持つことは多々ある。

だから、匿名の個人の思考なんて気にしない人がほとんどだろう。

むしろ、書くことすら恥ずかしいことだと思っているかもしれない。

 

だけど、きっと世界のどこかでその名も知らぬ誰かの文章に救われる人がいることを僕は知っている。

それは、僕だったから。

誰かの文章がを僕に勇気や知恵や、共感をくれた。

それは一時的な薬のような作用だったかもしれないが、僕はそのおかげで生きていると思うのだ。

 

だから、書いてほしい、と思う。

その、どうしようもない悲しみや日常の優しさや幸せを。

この生活が確かになにがしかの豊かさで成り立っていると証明してほしいのである。

その、単純で情熱的な思考にこそ価値があるのだと。

洗練されていなくても、君の感情があふれ出していれば。

その、熱量で誰かを溶かすことが出来れば。

 

そういう文章が好きである。

だれも傷つける必要もないし、元気づける必要もないけど、

読んだ途に、少し心があったかくなればいい。

自分の文章が好き

 

自分の書いた文章を見るのが好きだと気づいた。

 

 

仕事をしていた時に、ふと昔のメールを見返る時がある。

仕事の依頼のメールだったり、誰かからの質問や依頼の返答したりしている。

仕事のメールというのはとにかく、書く前に考えることが多く、そして推敲も結構時間をかける。

 

そういった自分の最大限の考慮の結果というのが、メールという文章に表れている。

そこに、自分がたどった思考の過程が見え隠れしているのだと思う。

言い方に配慮しているのだとか、論理的な考え方をしているのだとか。

 

メールを見返すと、その時の自分の思考の努力の過程を見えることが楽しい。

たぶん、書いているときは、どうにかして納得いってくれることをただ考えているだけなのだと思うけど、そのたまった結果をある日見返していると、得も言われぬ快感を覚えるのである。

 

 

どこかの誰かが、自分の書きたい文章を書くことが大事であるといっていた。

一番のファンは自分であるべきだと。そんなことを言っていたように思う。

自分の書いた文章が、自分で好き。

なぜだか分からないけど、そこには不思議な喜びがあると思っている。

 

 ツイッターで見たのだが、100億円今手元に入ったとして、今の仕事を続けたいと思うか?

という考え方が流行っているらしい。

そんなのナンセンスだ。

僕なら今すぐやめる。

やめてやる。

そして何をするのか?

そこが問題なのだと思う。

 

僕は何もしたくないのだ。

考えることが多すぎる

生きていくには何かしら考えて生きていかないといけない

未来、老後、仕事、趣味、恋人、食事

なんでもっとゆったりと生きられないのだろうか

僕が情報を見すぎなのか

ボゥーと生きていたいのだ

100億円あったところで

僕がしたいのは自然豊かで

景色がきれいなところでボーとしたいのだ

明日の心配もせず

ただ天気と移りゆく景色をみて

それだけだ

 

それだけで僕は救われる

 

 なにか書きたいと思った。

唐突にそう思った。だから書くのである。

 

こういうブログは突発的なものになりやすいことは自分でもよくわかっている。

だけど書かなきゃればいけないと思った。

それは、原因とか理由は分からないけど、最近は頭の中がぐるぐるしていて落ち着かなくなってきている。そういうときに大事なのは、人と会話することであったりリフレッシュすることなのだと思うけど、あいにく今回のは結構重めのメンタルがやられている。

 

だからブログにする。

きっと目も当てられないようことも書く。

誰の得にもならない。

僕のぐるぐるを吐き出すだけだ。

だけど落ち着かせてくれ。

落ち着かせてほしい。

1人で何時間も海を見たりしていたくはない。